I_F_ASAKAのブログ

日本の歴史・政治・経済学の基本

上妻多学は義賊か? 不平士族ではない!!

上妻多学については                          私の5代前男爵前田正名が書いた上妻多学の墓碑(郡山市)と破れた系図だけである。 墓碑には男爵前田正名が 『上妻多学熊本県飽託郡芳野村之産也父日上妻親次通称久兵衛其先出於藤原鎌足後裔肥後菊池氏鎌足二十五世孫隆泰有勇名文永之役奮闘斬元兵血逆注旗痕如星形第三子有隆傳其旗因称赤星氏云有隆勇武文永弘安二役最有戦巧子孫世為肥後名族後有故称上妻氏親次實有隆二十世孫也親次有三子伯源太郎仲伊賀次季即多学以嘉永六年五月四日生・・・明治20年干此地内開拓牛庭原遂ト居於豊田村大泥浮致力於開拓稲田桑圃之利漸加大正二年六月八日享年六十有一諡日』。                        一方、種子島上妻家で近年見つかった。国登録文化財 旧上妻家住宅 一般公開 された。 その中に上妻家の始祖は『天智天皇より大職官吏冠に任じられ、藤原姓を賜り、鎌足公を始祖』として成っている。私にとっては最後のミステリ―『藤原鎌足』のところが解けた。                    史実だから福島県郡山市の歴史が変わる事になる。上妻家多学の実家は熊本県金峰山に今も存する。                            熊本藩時習館最後の藩士して熊本金峰山の山頂に春日神社が有る所に住んでいた と上妻多学の日記には書いてある。                男爵前田正名が行った、日本最初の農業株式会社『一歩園』として本部を神戸市にオリーブ園として設置。福島支部の資料を13年前父から渡された。                                 上妻多学の日記に神風連の乱西南戦争で熊本隊で参加した事が書いてある  熊本隊で川尻で西郷隆盛と会った事書いてあった。 私が高校の教科書で習ったのは不平士族の反乱に参加したと言う不名誉な点ばかりの知識であった。     本当かと思い調べる事にしたが困難を極めた。親戚達から歴史を関ることは無駄だと言われ、8年前に上妻多学実家は有ったが親戚の家になっていた。         本家の上妻学が上妻多学の位牌を持って金峰山を訪問。             家紋の一つ日の丸扇の7本骨を知って驚いた。 私が現在全国菊池の会のメンバーと成り上妻家のルーツを探す旅をして  熊本が身近になった。熊本も福島と同じぐらぃ広い。                     翌年、金峰山神社の宮司様の案内で夏目漱石邸の案内。宮部鼎蔵の生家跡。神風連の資料館休日太田黒氏の子孫の方には会えなかった。上妻多学の日記には神風連で戦った事、西郷隆盛にも川尻で会った事も書いてある。陣屋を貸した熊本三隊と薩摩の岩切喜二郎隊について書いてある。             神風連とは無関係だと思い、必要が無いと考えていた教育に憤慨だ。今、思ってい始めたのは武士として一人生き残り人生は良いことをしても苦悩の人生だったと。           熊本金峰山の実家は、熊本には帰れなかった。                 朋友、東郷平八郎から門外不悉と聞いているが子孫として上妻多学の名誉回復の為になれば神風連の資料館に寄贈することにした。                 上妻多学は熊本にとっては明治政府を変えようとした不平士族は汚名は今も残ったままだ。                  子孫が動かない名誉は回復しないと思うが、弁護士、マスコミ、近現代歴史学者、文部省。明治維新後の歴史については論文を提出しても門前払いで動かない事実。陽明学を排除した司馬遼太郎の歴史しか大河ドラマにならないのは表現の自由の抑圧である。不満!! 不満!! と怒る!!

郡山市の日本遺産は歴史の捏造である

郡山市の日本遺産の歴史捏造について

編集

郡山市の学会とはと問うが、学会がどの学会なのかも言わず、ストーリーを書いた学会の学者の指名と一次資料としての古文書も示して頂けなかった。 大久保利通の夢となった学会の古文書と根拠はない。 国の税金が入ってますし、教育上にも問題にも成りますしので明らかにすべきである。 

大久保利謙氏の歴史学における古文書史実実証主義も取り入れた真実の歴史にするのが重要であります。 古文書を使い真実の歴史を伝える義務がある。 そうで無ければ自治体として民主主義社会に反する事に成る。

安積野開拓顕彰会の趣意書には国策事業『安積疏水と開墾』は明治5年と書いて有ります。 明治5年県令安場保和が小林久敬の計画の提案を明治政府に提出し、廟儀し決定したとする論文資料も有ります。

『牛庭開墾百年の歩み』(昭和58年9月刊)は大久保利謙氏がアドバイザーであります。その文中に、安積疏水と開墾は聖上東巡安積郡開成山にて明治5年10月福島県令安場保和と県参事山吉盛典より該原野開拓方法承調井上馨大蔵大輔へ上申、其の筋の許可を得て明治6年より士族の移住開墾に着手とあります。

この資料を基に明治6年2月に県勧奨で二本松藩が入植をしています。 開墾疏水事業は明治5年から始まっている事が史実であります。

明治5年が正しいので『安積疏水と開墾』は『其の筋の許可』による国策事業である。 『其の筋の許可とは』、明治天皇太政大臣三条実美、参議の西郷隆盛大隈重信江藤新平後藤象二郎副島種臣達で決定したことに成ります。 五箇条の御誓文の通り、参議達の話し合いをした事象を明治天皇が決定したことに成ります。  

大久保利通岩倉使節団で日本には居ない。日本遺産のストーリーが正しければ明治天皇の決定に逆らうことになる。 県庁文書や安積野開拓顕彰会の趣意書を否定することにもなります。  日本国については大事な歴史の転換問題なので、正しい事象に変える必要がある。

 ②安積疏水と開墾事業は明治5年から明治25年頃まで係っているのが史実です。

日本遺産ストーリーでいくと大久保利通のみで他の明治の偉人達が多数係わっていますが消滅をしています。

男爵前田正名は混乱が生じている『安積疏水と開墾』に明治13年から明治25年以降も関わりました。郡山市の礎に成った明治の偉人の第一人者の一人です。           男爵前田正名が消滅しているのは何故か? 県令安場保和は西郷隆盛の推挙で大蔵大丞・租税権頭となります。明治政府の租税問題で明治15年以降県令三島通庸と男爵前田正名は未開拓地岩瀬郡と安積郡の440町歩の借地料を契約し未開発の疏水と開墾を開始しています。 開墾事業を行っているのは歴史事実です。

資料によると最初の管理者としての任務をする久留米藩藩主有馬頼滿が『返還届』を明治13年に提出し、県令山吉が受理をしている事も史実です。 これにより、先発の久留米藩士達は困窮をします。 困窮に対し県令三島通庸は男爵前田正名にお願いし、前田を管理者として開墾資金を得て再開した。その史実も郡山市の歴史から消えているのは何故か?

 ③長谷川栄子氏の論文より 岩倉使節団成立過程の再検討 『岩倉具視関係史料』所収の新出書簡を用いて―      岩倉使節団の安場保和の立場を記す。

安場保和は明治4年大蔵卿大久保利通井上馨達と対立をしていた渋沢栄一に安場保和が同調。その租税方法とは『富国安民』『興国安民』経世済民』による方法です。この方法は天保の飢饉後、老中である小田原藩主大久保忠真が藩の困窮を財政再建の為に開墾事業の拡大により富国にするという二宮尊徳の富国経済安民理論を採用し実施した事から始まります

安場と渋沢は無職・無産で遊民化する士族問題を視し、明治4年に『士族授産』として開墾事業奨励案を作り、これに西郷隆盛の同調の兆しに、大蔵省内が混乱をします。 井上馨が混乱を憂慮し、大蔵卿大久保利通に相談。岩倉使節団に安場保和を乗船させて沈静化をねらうことにした。 一方、安場に同調している渋沢栄一の『士族授産』の奨励事業案に西郷隆盛達参議が同意。実施をした。

『士族授産』の奨励事業は明治政府が明治4年から実施をされている。

 

1).「県の典司中條政恒と大久保利通が会談したことが開墾事業を計画を促進させたした」と昭和50年代から市の刊行文書に記載されている。 この歴史刊行文書を書き換えたのが歴史の歪曲の始まりである。

郡山市最初の歴史『わたくしたちの郡山』郡山市社会科教育研究会編 発行者 郡山市小中学校長協議会(昭和40年4月10日)は公文書で解る。

『わたくしたちの郡山』には1877年(明治10年)に河野広中(福島自由民権の代表)等は開成山区会長の中條政恒をときふせて、本県だけの民会規則をつくることに成功したとの記載がある(福島自由民権に開墾資金の一部流失させる密約)。

中條政恒が疏水と開墾の関心より福島自由民権運動が必要と考えていたからである。  このことについて男爵前田正名は『興業意見』の福島県の状況について書いています。

 明治9年明治天皇の訪問6 月16日明治天皇行列は金透小学校訪問後、開成館に向かった宿泊先でる開成館では福島県令山吉盛典や開成社社長阿部茂兵衛らが天皇に謁見し県政や安積開拓の状況について上奏がなされた(資料は開成館に有るはず)。 学校で残務を済せた御代田も遅れて開成館へ到着した(明治9年明治天皇の東北巡幸、天皇の学校訪問。福島県郡山小学校事例。鈴木敦史氏論文より)

この事象からも大久保利通と中條政恒の会談は誇大に昭和50年代に作り上げた歴史歪曲といえる。国策安積疏水と開墾事業とは彼等が無関係である事が証明される。この事象からも大久保利通と中條政恒の会談は誇大に昭和50年代に作り上げた歴史歪曲といえる。国策安積疏水と開墾事業とは無関係である事が証明される(県令山吉盛典は明治天皇達に同行をしているので重要な資料です)。

郡山市は何の史実歴史資料も検討せず、同じく両者(大久保と中條)の会談の絵画や両者か握手している銅像などまで作って、両者が事業計画の立役者として英雄化されている。 しかし、二人が開墾の祖とする証明をする古文書などはない。 

この史実は昭和年代の創作で有り、歴史捏造と断定出来る。

明治の偉人達の名前が消滅し、絵画や銅像のあるのに中條政恒まで消して、日本遺産が大久保利通だけの夢になってしまったのは何故か? 日本の歴史を変える事になるので古文書を提示し、歴史学者は誰なのか納得する説明をする責任がある。無ければ日本史教育に対する冒涜といえるし、明治天皇に対する冒涜である。

郡山市と地方の御用歴史家と大久保利通三男系の子孫大久保利泰氏の癒着、大久保利通への忖度歴史が始まったのです。

 2).国策標記事業の日本遺産指定の経緯にも歴史史実説明の点で疑問が生じます。

日本遺産の指定を受けて郡山市は歓迎をしているが歴史の歪曲が判明すると補助金の受け取りが問題となる為に中條政恒の名前を標記されていない。 

史実の公文書が在るのに、古文書もなく、公文書にない史実を創作したものを審査し認可したのは歴史教育にも問題を生じる。 つまり、日本遺産スト-リ-史実を認めることは日本史歴史教育が変わる事となり、捏造の日本史と成ります。

国策標記事業に係った明治維新の偉人達が多数係わっている事は史実である。

その歴史が一切消されているのは何故か? 郡山市文化庁には責任がある。

古文書の証拠説明なしでは消したのは大久保利通の三男系子孫と郡山市の癒着関係を築いたから出来た事と疑われることに成ります。古文書の開示をお願いします。

 3).資金流用などにより安積疏水と開墾は混乱し開発が遅れ、未完成の安積疏水があった。 開墾地の貧困についてとそれを自力で疏水を完成させたのは上妻多学(熊本藩士、時習館)と明治政府の開墾と疏水資金の管理者の男爵前田正名と高橋是清である。明治20年に上妻多学は清浦奎吾(内務省警保局第23代内閣総理大臣)に身分保障をされて管理者として開墾地に赴任をした。上妻多学の開墾資料に一部が載されている。

その古文書の原本は私の手元にある。ただし、高橋是清の一部の活躍の部分が抜かれている。高橋是清と上妻多学の関係については高橋是清の資料館に4通手紙として残っている。

開成館から開墾と疏水に係わった上妻多学、前田正名、高橋是清の名前が消されているのが歴史事実。

群山市の日本遺産捏造について

郡山市の学会とはと問うが、学会がどの学会なのかも言わず、ストーリーを書いた学会の学者の指名と一次資料としての古文書も示して頂けなかった。 大久保利通の夢となった学会の古文書と根拠はない。 国の税金が入ってますし、教育上にも問題にも成りますしので明らかにすべきである。 

大久保利謙氏の歴史学における古文書史実実証主義も取り入れた真実の歴史にするのが重要であります。 古文書を使い真実の歴史を伝える義務がある。 そうで無ければ自治体として民主主義社会に反する事に成る。

安積野開拓顕彰会の趣意書には国策事業『安積疏水と開墾』は明治5年と書いて有ります。 明治5年県令安場保和が小林久敬の計画の提案を明治政府に提出し、廟儀し決定したとする論文資料も有ります。

『牛庭開墾百年の歩み』(昭和58年9月刊)は大久保利謙氏がアドバイザーであります。その文中に、安積疏水と開墾は聖上東巡安積郡開成山にて明治5年10月福島県令安場保和と県参事山吉盛典より該原野開拓方法承調井上馨大蔵大輔へ上申、其の筋の許可を得て明治6年より士族の移住開墾に着手とあります。

この資料を基に明治6年2月に県勧奨で二本松藩が入植をしています。 開墾疏水事業は明治5年から始まっている事が史実であります。

明治5年が正しいので『安積疏水と開墾』は其の筋の許可による国策事業である。 『其の筋の許可とは』、明治天皇太政大臣三条実美、参議の西郷隆盛大隈重信江藤新平後藤象二郎副島種臣達で決定したことに成ります。 五箇条の御誓文の通り、参議達の話し合いをした事象を明治天皇が決定したことに成ります。  

大久保利通岩倉使節団で日本には居ない。日本遺産のストーリーが正しければ明治天皇の決定に逆らうことになる。 県庁文書や安積野開拓顕彰会の趣意書を否定することにもなります。  日本国については大事な歴史の転換問題なので、正しい事象に変える必要がある。

 ②安積疏水と開墾事業は明治5年から明治25年頃まで係っているのが史実です。

日本遺産ストーリーでいくと大久保利通のみで他の明治の偉人達が多数係わっていますが消滅をしています。

男爵前田正名は混乱が生じている『安積疏水と開墾』に明治13年から明治25年以降も関わりました。郡山市の礎に成った明治の偉人の第一人者の一人です。           男爵前田正名が消滅しているのは何故か? 県令安場保和は才西郷隆盛の推挙で大蔵大丞・租税権頭となります。明治政府の租税問題で明治15年以降県令三島通庸と男爵前田正名は未開拓地岩瀬郡と安積郡の440町歩の借地料を契約し未開発の疏水と開墾を開始しています。 開墾事業を行っているのは歴史事実です。

資料によると最初の管理者としての任務をする久留米藩藩主有馬頼滿が『返還届』を明治13年に提出し、県令山吉が受理をしている事も史実です。 これにより、先発の久留米藩士達は困窮をします。 困窮に対し県令三島通庸は男爵前田正名にお願いし、前田を管理者として開墾資金を再開した。その史実も郡山市の歴史から消えているのは何故か?

 ③長谷川栄子氏の論文より 岩倉使節団成立過程の再検討 『岩倉具視関係史料』所収の新出書簡を用いて―      岩倉使節団の安場保和の立場を記す。

安場保和は明治4年大蔵卿大久保利通井上馨達と対立をしていた渋沢栄一に安場保和が同調。その租税方法とは『富国安民』『興国安民』経世済民』による方法である。この方法は天保の飢饉後、老中である小田原藩主大久保忠真が藩の困窮を財政再建の為に開墾事業の拡大により富国にするという二宮尊徳の富国経済安民理論を採用し実施した事から始まりる

安場と渋沢は無職・無産で遊民化する士族問題を視し、明治4年に『士族授産』として開墾事業奨励案を作り、これに西郷隆盛の同調の兆しに、大蔵省内が混乱をします。 井上馨が混乱を憂慮し、大蔵卿大久保利通に相談。岩倉使節団に安場保和を乗船させて沈静化をねらうことにした。 一方、安場に同調している渋沢栄一の『士族授産』の奨励事業案に西郷隆盛達参議が同意。実施をした。

『士族授産』の奨励事業は明治政府が明治4年から実施をされている。

 

1).「県の典司中條政恒と大久保利通が会談したことが開墾事業を計画を促進させたした」と昭和50年代から市の刊行文書に記載されている。 この歴史刊行文書を書き換えたのが歴史の歪曲の始まりである。

郡山市最初の歴史『わたくしたちの郡山』郡山市社会科教育研究会編 発行者 郡山市小中学校長協議会(昭和40年4月10日)は公文書で解る。

『わたくしたちの郡山』には1877年(明治10年)に河野広中(福島自由民権の代表)等は開成山区会長の中條政恒をときふせて、本県だけの民会規則をつくることに成功したとの記載がある(福島自由民権に開墾資金の一部流失させる密約)。

中條政恒が疏水と開墾の関心より福島自由民権運動が必要と考えていたからである。  男爵前田正名は『興業意見』の福島県の状況について書いています。

 明治9年明治天皇の訪問6 月16日明治天皇行列は金透小学校訪問後、開成館に向かった宿泊先でる開成館では福島県令山吉盛典や開成社社長阿部茂兵衛らが天皇に謁見し県政や安積開拓の状況について上奏がなされた(資料は開成館に有るはず)。 学校で残務を済せた御代田も遅れて開成館へ到着した(明治9年明治天皇の東北巡幸、天皇の学校訪問。福島県郡山小学校事例。鈴木敦史氏論文より)

この事象からも大久保利通と中條政恒の会談は誇大に昭和50年代に作り上げた歴史歪曲といえる。国策安積疏水と開墾事業とは無関係である事が証明される。この事象からも大久保利通と中條政恒の会談は誇大に昭和50年代に作り上げた歴史歪曲といえる。国策安積疏水と開墾事業とは無関係である事が証明される(県令山吉盛典は明治天皇達に同行をしているので重要な資料です)。

郡山市は何の歴史資料も検討せず、同じく両者(大久保と中條)の会談の絵画や両者か握手している銅像などまで作って、両者が事業計画の立役者として英雄化されている。 しかし、二人が開墾の祖とする証明をする古文書などはない。 

この史実は昭和年代の創作で有り、歴史捏造と断定出来る。

明治の偉人達の名前が消滅し、絵画や銅像のあるのに中條政恒まで消して、日本遺産が大久保利通だけの夢になってしまったのは何故か? 日本の歴史を変える事になるので古文書を提示し、歴史学者は誰なのか納得する説明をする責任がある。無ければ日本史教育に対する冒涜といえるし、明治天皇に対する冒涜である。

郡山市と地方の御用歴史家と大久保利通三男系の子孫大久保利泰氏の癒着、大久保利通への忖度歴史が始まったのです。

 2).国策標記事業の日本遺産指定の経緯にも歴史史実説明の点で疑問が生じます。

日本遺産の指定を受けて郡山市は歓迎をしているが歴史の歪曲が判明すると補助金の受け取りが問題となる為に中條政恒の名前を標記されていない。 

史実の公文書が在るのに、古文書もなく、公文書にない史実を創作したものを審査し認可したのは歴史教育にも問題を生じる。 つまり、日本遺産スト-リ-史実を認めることは日本史歴史教育が変わる事となり、捏造の日本史と成ります。

国策標記事業に係った明治維新の偉人達が多数係わっている事は史実である。

その歴史が一切消されているのは何故か? 郡山市文化庁には責任がある。

古文書の証拠説明なしでは消したのは大久保利通の三男系子孫と郡山市の癒着関係を築いたから出来た事と疑われることに成ります。古文書の開示をお願いします。

 3).資金流用などにより安積疏水と開墾は混乱し開発が遅れ、未完成の安積疏水があった。 開墾地の貧困についてとそれを自力で疏水を完成させたのは上妻多学(熊本藩士、時習館)と明治政府の開墾と疏水資金の管理者の男爵前田正名と高橋是清である。明治20年に上妻多学は清浦奎吾(内務省警保局第23代内閣総理大臣)に身分保障をされて管理者として開墾地に赴任をした。上妻多学の開墾資料に一部が載されている。

その古文書の原本は私の手元にある。ただし、高橋是清の一部の活躍の部分が抜かれている。高橋是清と上妻多学の関係については高橋是清の資料館に4通手紙として残っている。

開成館から開墾と疏水に係わった上妻多学、前田正名、高橋是清の名前が消されている。

富国安民!! 経世済民とは!! 3

富国安民!! 経世済民とは 3

明治時代に入り、明治天皇五箇条の御誓文を発した。荒廃した福島県に対して秩禄を得る為に土地の開墾を奨励した。史実は明治5年10月に県令安場保和参事山吉盛典より該原野開拓方法承調べ井上大蔵大輔へ上申其の筋の許可を得て明治6年より開墾に着手・・・と(牛庭原開墾百年の歩みに前書きは大久保利謙氏) 井上大蔵大輔は井上馨。其の筋の許可は明治天皇三条実美、参議西郷隆盛大隈重信江藤新平板垣退助達である。明治政府の国策第一号の史実。この史実は現在歴史から消滅したままである

渋沢栄一の日記で井上候と私どもは財政改革を行うにあたり、興国安民を廃止しようとの議が有った。これを聞きつけた相馬藩(相馬中村藩)では藩の消長関する由々敷一大事だと言うので富田久助、志賀直道の両人を出京せしめ、両人は西郷参議に面接し、財政改革を行ってを行っても、同藩の興国民法ばかりは御廃止にならぬやうにと具に頼み込んだものである。・・・「一国の興国安民法を如何にすべきか就いての御賢慮なきは近頃以て其意を得ぬ次第、本末顛倒の甚しきものである」と切論いたすと、西郷公は之に対し別に何とも云わず黙々として茅屋を辞し帰られてしまった。兎に角、維新の豪傑のうちで、知らざるを知らずとして毫も虚飾の無かった御人物は西郷公で、実に恐れ入ったものである。底本『渋沢栄一伝記資料』別巻第6 (渋沢青淵記念財団竜門社 1968.11) P677-685

伊東佑享海軍元帥回顧談によると 「西郷の乱」の発動の原因と動機について、実は重大なる真相を明かしていると思われる。大久保や山縣有朋など維新政府高官達は栄耀栄華の立場を手に入れたことで、月日が経つごとに派閥政治と強権政治、華美狂乱が目に余ってきた。反対にその明治維新にすべてを賭けて戦った心ある一般の武家・武士達一般庶民は、秩序の崩壊に途方に暮れ、経済的にも困窮に端いでいた。「ご維新の初志」を忘れ、国民から離れて腐敗してしまった維新政府の有様を、西郷はこれを看過でなかったのである。幕藩体制を打倒した明治維新の本旨は、政府高官の権力乱用と腐敗横行の世の中にしたり、私利私欲の実現にあらず、国家国民の生活、経世済民(経済)が当たり前であることを直訴するため薩摩を出立したのであった。しかし、徳川将軍家に代って今や権力の魔力と快感に酔いしれた維新政府の高官達には、慈悲と至誠に溢れ高潔の巨人であった西郷は「眩しすぎて不都合な存在」だったのであろう。

こうして、天皇制のもとで800年近い老練な武家社会が保ってきた特有のアジア的・家族的な空気の統治。西郷の『敬天愛人』に象徴される、陽明学<最高の心/素心を押し立てた至る良知、断固たる行動の教え>や座禅の修行など、慈愛で゛包む王道と万物一体の「仁」の政治。その寛容と誠意から発する強かな政治は影を潜めた。

代りに、日本国の統治に歴史・経験の浅い新しい統治者たちは明治維新西南戦争の勝利に続く日清戦争の勝利、日露戦争の勝利という『勝利の豊穣』を満喫した。そして、その「猛りと気合」によって欧米かぶれの覇道の政治、力のマネージメントを獲得したのかも知れない。この戦勝体験と国家経営の行きつくところに、第2次世界大戦の大敗が待っていたと言えよう。

もし、そうだとすれば、過ちの歴史を繰り返さない為に、明治維新以降のわが国社会の光と影を検証し、昭和天皇の王道の力でも止められなかった日本の政治に潜む歯止めの効かない危険なサガ(性質)と傾向を常に警戒して行かなくてばならない。

富国安民!! 経世済民とは 2

明治維新の歴史では明治4年4月廃藩置県が実行された。幕藩体制が崩壊した。藩に属していたていた旧士族達とその家族に生活の困窮を生じさせ、政治・社会的に反発を増大させた。一方近代化推進の責任者は井上馨大久保利通である。この事態を知った西郷隆盛江藤新平大隈重信達の明治政府は旧武士達の救済という目的で士族授産の開墾事業を全国各地に奨励をした。

例として挙げれば相馬中村藩の開墾事業。西郷か相馬中村藩から嘆願を受け、渋沢栄一に日記にも書いて有る西郷隆盛渋沢栄一のやり取り後に渋沢栄一が実施した史実。ここでは興国安民法と成っている。大河ドラマでは消えていた史実。  底本『渋沢栄一伝記資料』別巻第6(渋沢青淵記念財団竜門社,1968.11) P677-685

明治6年の富国強兵を採用した大久保利通岩倉具視と富国安民=経世済民と対立することになる。

富国安民とは!! 経世済民とは!!

天保の飢饉後に生まれた武士の生活・民と共に困窮を越える為に作った。

徳川幕府小田原藩主大久保忠真が二宮尊徳の改革案の『富国安民』論を採用し実施した理論である。

明治元年からも『富国安民』論を採用し経済・政治の基本とした。

『富国安民』は『経世済民』と同義語で『世を修め、民を済う』である。

国家形成で政治・経済・統治・行政の社会を作る事で有る。

明治元年以降明治天皇三条実美西郷隆盛達が支持した。権力の中枢で有った。

この国家形成で『経世済民』は現代でも経済・統治・行政の基本と成る。

しかし、この史実を歴史学者は無視している。教科書にも載らない。

明治6年以降に国家形成が『富国強兵』に変わり大久保利通岩倉具視達が出現し

彼らの歴史が明治と成ってしまった。

近現代の歴史で捏造の歴史が蔓延っている。