I_F_ASAKAのブログ

日本の歴史・政治・経済学の基本

群山市の日本遺産捏造について

郡山市の学会とはと問うが、学会がどの学会なのかも言わず、ストーリーを書いた学会の学者の指名と一次資料としての古文書も示して頂けなかった。 大久保利通の夢となった学会の古文書と根拠はない。 国の税金が入ってますし、教育上にも問題にも成りますしので明らかにすべきである。 

大久保利謙氏の歴史学における古文書史実実証主義も取り入れた真実の歴史にするのが重要であります。 古文書を使い真実の歴史を伝える義務がある。 そうで無ければ自治体として民主主義社会に反する事に成る。

安積野開拓顕彰会の趣意書には国策事業『安積疏水と開墾』は明治5年と書いて有ります。 明治5年県令安場保和が小林久敬の計画の提案を明治政府に提出し、廟儀し決定したとする論文資料も有ります。

『牛庭開墾百年の歩み』(昭和58年9月刊)は大久保利謙氏がアドバイザーであります。その文中に、安積疏水と開墾は聖上東巡安積郡開成山にて明治5年10月福島県令安場保和と県参事山吉盛典より該原野開拓方法承調井上馨大蔵大輔へ上申、其の筋の許可を得て明治6年より士族の移住開墾に着手とあります。

この資料を基に明治6年2月に県勧奨で二本松藩が入植をしています。 開墾疏水事業は明治5年から始まっている事が史実であります。

明治5年が正しいので『安積疏水と開墾』は其の筋の許可による国策事業である。 『其の筋の許可とは』、明治天皇太政大臣三条実美、参議の西郷隆盛大隈重信江藤新平後藤象二郎副島種臣達で決定したことに成ります。 五箇条の御誓文の通り、参議達の話し合いをした事象を明治天皇が決定したことに成ります。  

大久保利通岩倉使節団で日本には居ない。日本遺産のストーリーが正しければ明治天皇の決定に逆らうことになる。 県庁文書や安積野開拓顕彰会の趣意書を否定することにもなります。  日本国については大事な歴史の転換問題なので、正しい事象に変える必要がある。

 ②安積疏水と開墾事業は明治5年から明治25年頃まで係っているのが史実です。

日本遺産ストーリーでいくと大久保利通のみで他の明治の偉人達が多数係わっていますが消滅をしています。

男爵前田正名は混乱が生じている『安積疏水と開墾』に明治13年から明治25年以降も関わりました。郡山市の礎に成った明治の偉人の第一人者の一人です。           男爵前田正名が消滅しているのは何故か? 県令安場保和は才西郷隆盛の推挙で大蔵大丞・租税権頭となります。明治政府の租税問題で明治15年以降県令三島通庸と男爵前田正名は未開拓地岩瀬郡と安積郡の440町歩の借地料を契約し未開発の疏水と開墾を開始しています。 開墾事業を行っているのは歴史事実です。

資料によると最初の管理者としての任務をする久留米藩藩主有馬頼滿が『返還届』を明治13年に提出し、県令山吉が受理をしている事も史実です。 これにより、先発の久留米藩士達は困窮をします。 困窮に対し県令三島通庸は男爵前田正名にお願いし、前田を管理者として開墾資金を再開した。その史実も郡山市の歴史から消えているのは何故か?

 ③長谷川栄子氏の論文より 岩倉使節団成立過程の再検討 『岩倉具視関係史料』所収の新出書簡を用いて―      岩倉使節団の安場保和の立場を記す。

安場保和は明治4年大蔵卿大久保利通井上馨達と対立をしていた渋沢栄一に安場保和が同調。その租税方法とは『富国安民』『興国安民』経世済民』による方法である。この方法は天保の飢饉後、老中である小田原藩主大久保忠真が藩の困窮を財政再建の為に開墾事業の拡大により富国にするという二宮尊徳の富国経済安民理論を採用し実施した事から始まりる

安場と渋沢は無職・無産で遊民化する士族問題を視し、明治4年に『士族授産』として開墾事業奨励案を作り、これに西郷隆盛の同調の兆しに、大蔵省内が混乱をします。 井上馨が混乱を憂慮し、大蔵卿大久保利通に相談。岩倉使節団に安場保和を乗船させて沈静化をねらうことにした。 一方、安場に同調している渋沢栄一の『士族授産』の奨励事業案に西郷隆盛達参議が同意。実施をした。

『士族授産』の奨励事業は明治政府が明治4年から実施をされている。

 

1).「県の典司中條政恒と大久保利通が会談したことが開墾事業を計画を促進させたした」と昭和50年代から市の刊行文書に記載されている。 この歴史刊行文書を書き換えたのが歴史の歪曲の始まりである。

郡山市最初の歴史『わたくしたちの郡山』郡山市社会科教育研究会編 発行者 郡山市小中学校長協議会(昭和40年4月10日)は公文書で解る。

『わたくしたちの郡山』には1877年(明治10年)に河野広中(福島自由民権の代表)等は開成山区会長の中條政恒をときふせて、本県だけの民会規則をつくることに成功したとの記載がある(福島自由民権に開墾資金の一部流失させる密約)。

中條政恒が疏水と開墾の関心より福島自由民権運動が必要と考えていたからである。  男爵前田正名は『興業意見』の福島県の状況について書いています。

 明治9年明治天皇の訪問6 月16日明治天皇行列は金透小学校訪問後、開成館に向かった宿泊先でる開成館では福島県令山吉盛典や開成社社長阿部茂兵衛らが天皇に謁見し県政や安積開拓の状況について上奏がなされた(資料は開成館に有るはず)。 学校で残務を済せた御代田も遅れて開成館へ到着した(明治9年明治天皇の東北巡幸、天皇の学校訪問。福島県郡山小学校事例。鈴木敦史氏論文より)

この事象からも大久保利通と中條政恒の会談は誇大に昭和50年代に作り上げた歴史歪曲といえる。国策安積疏水と開墾事業とは無関係である事が証明される。この事象からも大久保利通と中條政恒の会談は誇大に昭和50年代に作り上げた歴史歪曲といえる。国策安積疏水と開墾事業とは無関係である事が証明される(県令山吉盛典は明治天皇達に同行をしているので重要な資料です)。

郡山市は何の歴史資料も検討せず、同じく両者(大久保と中條)の会談の絵画や両者か握手している銅像などまで作って、両者が事業計画の立役者として英雄化されている。 しかし、二人が開墾の祖とする証明をする古文書などはない。 

この史実は昭和年代の創作で有り、歴史捏造と断定出来る。

明治の偉人達の名前が消滅し、絵画や銅像のあるのに中條政恒まで消して、日本遺産が大久保利通だけの夢になってしまったのは何故か? 日本の歴史を変える事になるので古文書を提示し、歴史学者は誰なのか納得する説明をする責任がある。無ければ日本史教育に対する冒涜といえるし、明治天皇に対する冒涜である。

郡山市と地方の御用歴史家と大久保利通三男系の子孫大久保利泰氏の癒着、大久保利通への忖度歴史が始まったのです。

 2).国策標記事業の日本遺産指定の経緯にも歴史史実説明の点で疑問が生じます。

日本遺産の指定を受けて郡山市は歓迎をしているが歴史の歪曲が判明すると補助金の受け取りが問題となる為に中條政恒の名前を標記されていない。 

史実の公文書が在るのに、古文書もなく、公文書にない史実を創作したものを審査し認可したのは歴史教育にも問題を生じる。 つまり、日本遺産スト-リ-史実を認めることは日本史歴史教育が変わる事となり、捏造の日本史と成ります。

国策標記事業に係った明治維新の偉人達が多数係わっている事は史実である。

その歴史が一切消されているのは何故か? 郡山市文化庁には責任がある。

古文書の証拠説明なしでは消したのは大久保利通の三男系子孫と郡山市の癒着関係を築いたから出来た事と疑われることに成ります。古文書の開示をお願いします。

 3).資金流用などにより安積疏水と開墾は混乱し開発が遅れ、未完成の安積疏水があった。 開墾地の貧困についてとそれを自力で疏水を完成させたのは上妻多学(熊本藩士、時習館)と明治政府の開墾と疏水資金の管理者の男爵前田正名と高橋是清である。明治20年に上妻多学は清浦奎吾(内務省警保局第23代内閣総理大臣)に身分保障をされて管理者として開墾地に赴任をした。上妻多学の開墾資料に一部が載されている。

その古文書の原本は私の手元にある。ただし、高橋是清の一部の活躍の部分が抜かれている。高橋是清と上妻多学の関係については高橋是清の資料館に4通手紙として残っている。

開成館から開墾と疏水に係わった上妻多学、前田正名、高橋是清の名前が消されている。