I_F_ASAKAのブログ

日本の歴史・政治・経済学の基本

上妻多学は義賊か? 不平士族ではない!!

上妻多学については                          私の5代前男爵前田正名が書いた上妻多学の墓碑(郡山市)と破れた系図だけである。 墓碑には男爵前田正名が 『上妻多学熊本県飽託郡芳野村之産也父日上妻親次通称久兵衛其先出於藤原鎌足後裔肥後菊池氏鎌足二十五世孫隆泰有勇名文永之役奮闘斬元兵血逆注旗痕如星形第三子有隆傳其旗因称赤星氏云有隆勇武文永弘安二役最有戦巧子孫世為肥後名族後有故称上妻氏親次實有隆二十世孫也親次有三子伯源太郎仲伊賀次季即多学以嘉永六年五月四日生・・・明治20年干此地内開拓牛庭原遂ト居於豊田村大泥浮致力於開拓稲田桑圃之利漸加大正二年六月八日享年六十有一諡日』。                        一方、種子島上妻家で近年見つかった。国登録文化財 旧上妻家住宅 一般公開 された。 その中に上妻家の始祖は『天智天皇より大職官吏冠に任じられ、藤原姓を賜り、鎌足公を始祖』として成っている。私にとっては最後のミステリ―『藤原鎌足』のところが解けた。                    史実だから福島県郡山市の歴史が変わる事になる。上妻家多学の実家は熊本県金峰山に今も存する。                            熊本藩時習館最後の藩士して熊本金峰山の山頂に春日神社が有る所に住んでいた と上妻多学の日記には書いてある。                男爵前田正名が行った、日本最初の農業株式会社『一歩園』として本部を神戸市にオリーブ園として設置。福島支部の資料を13年前父から渡された。                                 上妻多学の日記に神風連の乱西南戦争で熊本隊で参加した事が書いてある  熊本隊で川尻で西郷隆盛と会った事書いてあった。 私が高校の教科書で習ったのは不平士族の反乱に参加したと言う不名誉な点ばかりの知識であった。     本当かと思い調べる事にしたが困難を極めた。親戚達から歴史を関ることは無駄だと言われ、8年前に上妻多学実家は有ったが親戚の家になっていた。         本家の上妻学が上妻多学の位牌を持って金峰山を訪問。             家紋の一つ日の丸扇の7本骨を知って驚いた。 私が現在全国菊池の会のメンバーと成り上妻家のルーツを探す旅をして  熊本が身近になった。熊本も福島と同じぐらぃ広い。                     翌年、金峰山神社の宮司様の案内で夏目漱石邸の案内。宮部鼎蔵の生家跡。神風連の資料館休日太田黒氏の子孫の方には会えなかった。上妻多学の日記には神風連で戦った事、西郷隆盛にも川尻で会った事も書いてある。陣屋を貸した熊本三隊と薩摩の岩切喜二郎隊について書いてある。             神風連とは無関係だと思い、必要が無いと考えていた教育に憤慨だ。今、思ってい始めたのは武士として一人生き残り人生は良いことをしても苦悩の人生だったと。           熊本金峰山の実家は、熊本には帰れなかった。                 朋友、東郷平八郎から門外不悉と聞いているが子孫として上妻多学の名誉回復の為になれば神風連の資料館に寄贈することにした。                 上妻多学は熊本にとっては明治政府を変えようとした不平士族は汚名は今も残ったままだ。                  子孫が動かない名誉は回復しないと思うが、弁護士、マスコミ、近現代歴史学者、文部省。明治維新後の歴史については論文を提出しても門前払いで動かない事実。陽明学を排除した司馬遼太郎の歴史しか大河ドラマにならないのは表現の自由の抑圧である。不満!! 不満!! と怒る!!